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私には強いお酒を頂戴。

無駄な会話。
冗長なシーンの中にしか、痺れるものは存在しない。

ジャッキーブラウン
Jackie Brown/Q・タランティーノ監督作品
今。今なら、良い音楽ばかり聴けそうだ。

翌朝目が覚めると、すっごくくだらなく、というよりも、多少恥ずかしく感じるようなものでも、夜がくればまたその価値が解る。
私にとって、「グッド・オールド」なものとはそういう立ち位置であって、昼間レコードを回さないのは勿体ないことだけれども、ただ単に時間の余裕がないからというわけでもなかった。

太陽はわかってくれない。

とか何とか言っても、最近では夜でもあまり回さないのだが、何ぶん感化されやすい性格なので、今、なわけです。
感化されやすすぎて、もうブラックミュージックならなんでも良いや的な気持ちでレイパーカーJr.、なんて不憫なことしてるんだろう。敬意もクソもないわ。でも感化されちゃうほど面白く、程よく痺れる映画でした。

そもそも今回タランティーノ監督の映画に初挑戦したのには、私にしては珍しく動機がありまして。

最近監督の新作映画が封切られたみたいですが、その映画がなんでか中国的にはNGだったらしく、”公開1分で上映中止になった”とか、もうそれならいっそ上映する前に止めときなさいよ、逆に煽ってますよそれ、炎上マーケティングってやつですか、みたいなニュースを見かけて。
そこからあてどなきインターネット大航海中にこれまたしょーもない、【タランティーノ監督は重度の脚フェチ】とかなんとかいうゴシップを見かけて、もうそんなの放っといてやんなさいよと思いながらも結局私が一番放っとけなかったという訳だったのです。
そんなに脚がすきなら、その人が撮った映画には、やはりそれが滲み出ているのか…?誰にでも当然わき上がる(可能性がなくもない)好奇心ですよ。

そして、この映画で確かめるべく、観察した結果…。

脚以外にも偏愛を感じさせるものが多すぎて、ラストでは本来の動機だった好奇心もだいぶ霞んでました。
シンプルだけどわくわくさせるストーリーの展開や、ちりばめられたBGMのBGMっぷりったるやもう。
もう公開された時点で「グッド・オールド」とされていただろうもの達が、惜しげも無く使われている様はとても気持ち良かった。
そしてなにより出演者に対する愛情が伝わってくる気がしましたし、特に主演の女優さんの使い方はもう「撮る側が惚れ込んでるんだろうな」と感じずにはいられないものが。
愛情の深い監督なのでしょうね(なんでいつもカンゴールのハットかぶってんだろとは昔から思ってたけども…)。
昔読んだ本に、『小説を書くということは、裸になって日本橋を歩くということと同じ』みたいな文章がありました。
なにかを真剣に作ったりするのは、そんなの自分の偏愛を晒しているようなもので、今更どんなゴシップを書かれたとて、当の本人はどうも感じないだろうなとぼんやり考えています。
結局それを嘲笑って、会話のネタにするような私のような人間の卑しさが、結局またも強調されてしまいました。完敗。



太陽の下で堂々と愛を叫べるという説得力。

もしも明日、午前中のうちに起きることができたら、そのときはレコードをかけよう。
そして誰かと無駄な会話を楽しむ。

せめて、それがとても難しいことで、大事なことでもあると気づかないような人間じゃなくてよかった。

それだけで、一回乾杯する価値はありそう。
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風は吹き抜ける

通り過ぎる、過ぎ去る。

しかし、また、戻ってくる。

夢には中も外もなく、また風が吹き抜けている。

おおかみこどもの雨と雪/細田守監督作品
おおかみこども
「崖っぷちの男」観たさに出掛けた劇場だったけど…ちょっとしたハプニング。
上映時間がどうにもしっくりこなかったので、公開初日だったこの映画を観ることに。
細田監督の長編アニメーションならば…たまたま今までの作品も全て観ていたので、信頼感もあり。
でもまぁ残念だったなーと思いながら銀幕は開いたのですが…

開いてからは、「なにこれ…すげぇ…」の連発でした。

これを書いている今も、録画してあったサマーウォーズを観ていますが、今更ながらサマーウォーズはサマーウォーズで凄く面白かったことを思い知らされています(なんか言い方が変だ)。

ただ、サマーウォーズのときは、光速とか、音速の類いの興奮があった。(時をかける少女のときも…あれはまさに時をかけているわけだから、しかも文字通り駆けていたし…光速を超えているのかもしれないけれど。)

でも、おおかみこどもの雨と雪(以下おおかみこども)では、決定的に違うものを観ました。

風速の昂り。血がふつふつと騒ぐ感じ。



人間なんて、だいぶその機能においては退化してきている感じがしますが、本来、動物はすごく天気に敏感です。四六時中、天のご機嫌を窺っているものです。天の機嫌次第でその日のごはんも寝床も遊び場も、全部ぜんぶ変わってくるわけですから、当然といえば当然。
天気の変わるような風が吹いたときに、動物が反応しているシーンって、実は私たち、よく目にしていますよね。
ねこが顔を洗ったりだとか(ウチのねこの場合は、耳の上から顔を撫で下ろし始めたら、かなりの確率でひとあめきます)。鳥は地面低くを飛び始め、アリの行列は家路を急ぎます。

その報せは、全て、風に乗ってやってくるのです。

風が教えてくれる。



作品の途中、何度も風を感じたし、実際に、風が観えた。
この人は風を描くのがすごくすきなんだと思った。

だいすきなひとが、自分が今まで思っていた”ふつう”とまるっきり違うと知ってしまったとき。
とてつもなく核心的な愛の存在を感じたとき。
どうしようもなく避けようのない不吉な時間が始まるとき。
小さな胸の大きな勇気が張り裂けそうになる瞬間。

全て風が吹き抜けていた。

時に雨の粒を使い、よだつ身の毛を使い、草のそよぎを使い、カーテンのレースがなびくのを使う。
あの手この手で風が吹き抜けた全てのシーンが印象的で、記憶というよりも体感に残ってしまっている。



同じような色をした血が流れているというだけの、所詮は独りよがりから始まる大事な繋がりから、生き物は作られ、傷つき、迷い、喜び、苦しみ、そしてそれでも守ろうとしていく。繋ごうと、伸ばそうとしてく。
そこには風がいつも吹いていて、自分をひとりにしてはくれない嬉しさも哀しさも作中ずっと感じることができた。風が教えてくれることは、ほんとにほんとにたくさんだ。

今この瞬間に、もう一度観たいシーンがたくさん思い浮かぶ、それだけで凄いことだ。
とにかく良い映画だったと言わざるをえないと思う。
他のどんなひとより同じような血が流れているふたりが、まったく別々の道を歩く姿も胸を打ったが、

個人的には…
主人公と、主人公が愛した”ふつうじゃないひと”。
このふたりが結ばれる瞬間に、彼が”ふつうじゃないかたち”だったのが凄く良かったし、それを受け入れたふたりの度胸に胸が詰まる思いがした。

同じような血が流れているというだけで―――、
こんなにも別な生き物だし、こんなにも同じ生き物なのだ。

全ては風の教えてくれたこと。

あなたも風に誘われたならば、きっと乗らない手はないのに。

遥か対岸で蝶が羽ばたいただけでも、そう、あなたの元に、風は吹き抜ける。

You look happy to meet me.

あなたを導く灯台の光は、その決意こそを、射抜く。



コクリコ坂から/宮崎吾朗監督作品
コクリコ
導かれるとき。それは迷いの中で。





季節柄、目につく花がある。

今の時期ならそう、向日葵だ。
鮮やかな黄色の花びらは、皆が避けたがるような直射日光の強烈な愛を、飽くことなく毎日求めている。
その季節になると、それこそ本当に毎日、同じように陽が昇って暮れるまで。

路傍に咲く植物というのは、その環境の過酷さを前提として、皆、すこぶる強い。
車窓から見えるアスファルトの割れ目や、田んぼの畦道、休耕地に生きる植物達。
誰かの家の庭や、花園や、温室のように管理の行き届いた場所でなく、誰もが一瞬で行き過ぎ、目的地にはしないような場所に咲く。

春なら土筆や蒲公英が、長い冬でこわばった土を突き破る。
夏なら向日葵が、誰より背筋を伸ばして立っている。
秋なら曼珠沙華。誰かを偲ぶひとを慰める花だ。
冬は皆が葉になり、根を組み合ってじっと耐えているのだ。
そして皆、太陽を愛している。
路傍の植物は皆、太陽への愛が強い。



太陽を愛するということ。

それはつまり、『上を向く』ということだ。
太陽の方角を、見つめるということだ。

花が咲くということ。

それは、その愛を継続させるということだ。
何故なら、その結果でしかあり得ないことだから。
咲く花が美しいのは、その結果でしかないのだ。

そりゃぁ、いつかは枯れてしまう。
その上、自分の美しさ(咲いている花にはこんな自覚なんて無いのだろう)が、こんな路傍から動かずに居て、誰かの目に留まるとは思えない。
つまりは太陽への愛が、報われるという確証は何も無いのだ。
それでも毎日同じことを繰り返す。
そうした果てにしか、辿り着けない場所がある。それは、しっかり地に根を張り、そこから動けない花だからこそ。



少女は毎日、旗をあげる。
茎を伸ばすように、その気持ちは天に向かう。
それは路傍の花と同じだ。

その毎日に、春のような日がある。
かすかな希望にも目を見張り、信じて上を向いている。

夏のような日もある。
身を襲う、何もかもが過剰に衝撃的なアクシデントにも、たじろがずに上を向いている。

秋のような日はどうか。
項垂れたくなるような切なさにも、それを撥ね除けようとするように毅然と胸を張り上を向いている。

厳しい冬の日にも君は。
動じない、揺るがない、誰もが下を向く日にこそ、負けじと上を向いている。



それが路傍の花の強さ。
誰も摘みあげ、手にしたことの無い美しさ。
高価な一輪挿しなんかには、飾ることのできない可憐。



少女の日常が、学びの庭の騒々しさが、リズミカルに美しく描かれていて本当によかった。
美しさは前作(宮崎吾朗の監督作品としての前作は“ゲド戦記”でいいんですよね?)でも十分観られたが、リズムについては抜群に磨きがかかっていたと思う。
肩の力を抜いて、クスっと笑えるような箇所が所々であったのも良かった。
それがまた、作品全体のリズムを作る節になる。
しかしそれもキャラクターの個性と愛嬌が活きてこそだ。それについても文句の無い仕上がりだったと思う。
これも個人的には、前作とは随分変わったなと思うところだろうか。

もう一回観てもいいかな、と思わせることの凄さ。

この時期にこのタイミングでこんなキャッチコピーで売ってくるような謎の軽い説教臭さは感じるものの(←捻くれた見方して本当に失礼だと思うけれど厭味でも貶しているわけでもないです…そこがすきなんです…)、これがジブリという世界に名だたるアニメーション制作(株式会社!)のクオリティ。
素晴らしい。
商業音楽を愛するのと同じように、愛してる。

要するに、なにがなんでも関係ない。美味しいものは美味しいということです。
スローフードだろうが無農薬だろうが、化学調味料使いたい放題添加物添加し放題だろうが。



『上を向いて歩こう』
愛を知ろう。愛に生きよう。
その決意をしよう。この場所から。

いいじゃない。それはどのみち、美しいことなんだから。





導かれるとき。それは迷いの中で。

それでも顔を上げたとき、だ。

徒花です、これは落としておいた方が良い

”それは、あなたにとっては秘密かもしれないけれど、真実ではないわね!”



一貫性のあるキャラクターというのは、とても魅力的で素晴らしい。
物語の中でも、現実の世界でも勿論そうだ。
自分に今一番欲しいもの(というか必要なもの)があるとすれば、”一貫性”。

生活が、もし誰かに与えられた役回りなのならば、もっと上手に演じきることができるのに。
そうじゃないから手に負えないことも多いのだろう。
そしてそれを僕らは、『しあわせ』と呼ぶのさっ!!!

WICKED/劇団四季ミュージカル作品
WICKED.jpg
ここで、「生きていたい」と願うことは、ただ「息していたい」とは違うんだよなぁ。
それは、他人の記憶の中に留まっていたいという、謎の、強い、欲望なんだ。
しかしそれは、何を以て、叶うと言えるのだろうか。

本格的なミュージカルを観るのは初めてだった。
いや、劇団四季レベルの大掛かりな舞台は、初めてと言うべきか…。
しかもチケットはプレゼント!!
『持つべきものは友達だ』なんて、こんなシチュエーションで言うと物凄くゲンキンに聞こえるのだけれど、もともと私はゲンキンな奴なので仕方が無いだろう。言い訳無用ってことである。ありがとう神様仏様三島様!!w



あなたが「うつくしい瞳」で見てくれるなら、それで良い。

物事には、裏と表がある。
…ちがう。この言い方ではしっくりこないな。
陰と陽?本音と建前?
…そんなものじゃない。
善と悪??
…あ、ちがうな。

あなたか、わたしか。
それしかないのだ、世界には。

あなたがわたしだったら、そして、わたしがあなただったら…
そう考えたときに、物語は枝分かれしていく。
このWICKEDという物語は、『オズの魔法使い』という大樹のような世界的な人気を誇る児童文学の名作が基となって描かれている。
その大樹の、陽の当たらない場所にあった一本の枝を、探り当て、複雑に果てまで伸びるその枝先まで見つめ続けたような物語だった。
観劇中ずっと、この物語を作った誰かのことを考えていた。原作者、脚本家、あるいはオズの物語に触れたとき、同じようなアイディアを浮かべた世界中の読者ひとりひとり。
彼等の持つそれを、うつくしい瞳と呼びたい。
その瞳がすきだ。



―悪者不在。
それは単なる甘ったるい夢物語という意味ではなく、明かされていく秘密の中でも、真実だけを、徹底的に突き詰めた上の結論だった。
エルファバとグリンダ。
それは、あなたか、わたしかという分かれ道。
今、わたしはどちら側に居るのだろう。
目の前で展開される物語にその疑問符を投げ続けるのだ。
そしてあなたは、ほんとうにあなたか?わたしは、ほんとうにわたしか?
わたしたちは、似てはいないか?
もしかしてそれは、一人の人格の中でも起こりうるのではないか?

おぅ…混乱してくるな!

しかし誰かが、うつくしい瞳で見てくれている。
そう思うと、また、枝の先に、あたらしい希望の芽が吹く。
それでいいんじゃないの。それで。



何よりもまず、よく通る、大きい声。
胸を震わす音楽。
豪華な舞台装置の数々。
息もつかせぬ見事な演出。

ミュージカル万歳!!と簡単に感化される、2011年、初夏。



そして枝の先に、春には遅れてしまったけれど、ようやく小さな花が咲いた。

「そう」じゃなくても、どのみち僕は。

ひとにやさしく。

というか、きみにやさしく。



こっちに引っ越して以来、眠らせたままにしておいたCDやDVDを久々に発掘したので、今日は確定申告の手伝いをしながらこれを観返してみた。
私の初めてのブルーハーツは、父に借りた「MEET THE BLUE HEARTS」。

こんなことがあったから、憎めないんだよなぁ…と思うw
ブルーハーツが聴こえない/THE BLUE HEARTS
ブルーハーツが聴こえない
「パンクロック」がすきだ。パンクロックじゃなくて、「パンクロック」がすきなんだ。

ブルーハーツは、それが最初から決まっていたかのように、一本道を辿って綺麗に消えてった、1985ー1995の足跡。
このDVDは簡単にその足跡を辿るドキュメンタリー形式で、私のような万年ビギナーには大変ありがたい一本なのだ。

『吐き気がするだろ?
 みんなキライだろ?』

ここから始まる、ブルーハーツの「パンクロック」。
すごくすきな曲だ。
私自身はパンクロックがどんなものかとか真面目に考えることもないし、そもそもそんなことに興味はない。
それでも多分パンクロックがほんとうにすきなひとならこれは、こんなのは違う!と言いたくなる曲なんじゃないかと思うんだ。こんなのパンクロックなんかじゃない!って。
でも、そんなのずっとわかってたんだと思うんだ。
すきなものを語る方法は必ずしもひとつじゃないってこと。

だって私の憧れのスターは、ときに男性だったりするけど、どれだけそのひとのことすきかって語るのに、男の子になれっていうの?そんなの馬鹿みたいじゃない。
だからこんなのパンクロックじゃないなんて言ってしまえるやつは、多分一生かかっても、パンクロックに指一本触れられないんだ。きっとそうさ。



『友達ができた
 話し合えるやつ
 何から話そう
 僕のすきなもの
 
 僕パンク・ロックがすきだ
 中途ハンパな気持ちじゃなくて
 ああ やさしいからすきなんだ
  
 僕パンク・ロックがすきだ』



「そう」じゃなくても話し合っていい。ここにはすきなもの持ち寄っていいよ。
恥ずかしがることはないし、気にすることなんてない。
だってやりかけの仕事も、帰らなきゃいけない場所も、もうなにもないところまで来てるんだから。
きみといるということが、僕にはそういうことだから。



簡単に、解り易く。
その語り口は、どこで切っても、いつ聴いても、惚れ惚れしてしまうフレーズが詰まっている。

私がココ!!と思う、お気に入りをいくつかご紹介(いっそざっくり引用してもいいじゃない、もう2時過ぎてるしw眠い…)。

TOO MUCH PAIN/
『今だけさ 明日はわからない
 そして風が言葉もなく吹き抜けた
 僕らの手の中を
 あなたの唇動く スローモーションで
 僕は耳を塞いでる
 TOO MUCH PAIN』

泣かないで恋人よ/
『あきらめきれぬ事があるのなら
 あきらめきれぬとあきらめる
 あきらめきれぬ事があるのなら
 それはきっといい事だ』

僕の右手/
『僕の右手を知りませんか?
 行方不明になりました』

終わらない歌/
『もうだめだと思うことは
 今まで何度でもあった』

少年の詩/
『そして!
 いろんな事が思いどおりになったらいいのになぁ』

ダンス・ナンバー/
『君の事笑う奴は
 トーフにぶつかって 死んじまえ』

期待はずれの人/
『君が僕をつまんで引っ張ってるけど
 おもちゃじゃないから伸びない
 笑っているけれど
 楽してるふりだけ
 期待はずれの人
 期待はずれの人』

ほら、どうだい?
あぁ、良い日本語だなぁ、って、思わないかい??
ここでキリが良いようにと2、3曲に絞れたりしないのが、私の私たる所以である。
「歩く花」もすきなのに、すきが過ぎたのか、どの箇所を抜粋すればいいか解らなかった馬鹿である。

そして多少の苦労をしてここまでぱちぱち書いてみて思ったけれど。
これ、実際聴かないと、私の言いたい事は多分到底わかんないままだなw自分の力量のなさを思い知らされるw
もう後は皆さんにおまかせしよう。
伝わらなかったらもどかしいから簡単に言うけれど、これは、もし良かったら聴いて欲しいって意味だ。
聴いてみて欲しいだけだもの。それだけなんだもの。

日本語では「簡単」という意味で、しばしば「やさしい」という言葉が使われる。



きみは、やさしいうたを、知ってるか。

プロフィール

ま★

Author:ま★
こんにちは。
ようこそおいでくださいました。

頭の中はとても愉快なやつです。
見た目はとっても冴えないですが。

更新は気まぐれになりそうですが、できるだけ頑張ります。

パーティーの招待状には、終わりの時間を書かないそうです。

しかしこのパーティーの本当に怖いのは、そもそも終わりの時間は永久に訪れそうにないこと。

ごゆっくり。

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